山田総領事(2017.6~2020.7)の見聞禄

平成29年11月2日

日本人・日系人が強制収容所に入れられた75周年記念行事

日本海軍によるパールハーバー奇襲攻撃から3か月経過した1942年2月19日、フランクリン・ルーズヴェルト大統領は大統領令9066号に署名します。これによって、米西海岸に居住する日本人と日系米国人約12万人が強制的に隔離され、全米10か所に設けられた強制収容所(War Relocation Center)に収容されることとなりました。

日本人・日系人は、戦争前も米国社会で様々な差別を受けました。シアトルでは居住地が一部の区域に制限されたり、白人と同じプールや映画館を利用できなかったのです。戦争が始まると、彼らは祖先が日本人であるというだけの理由で、一括りに「敵性外国人」と位置付けられて隔離されました。彼らはごく僅かな荷物しか持参を許されませんでした。このため、それまで長年の努力によって築いた財産や土地を二束三文で手放すことを余儀なくされました。当時の日本街の中心的存在だったパナマ・ホテルの地下には、その当時持って行くことを断念したスーツケースが山積みされており、床の一部に張られたガラス板を通じてその様子を見ることができます。
 
Camp Harmony (Source: Wikimedia Commons)
 
多数の日系人が住んでいたシアトル周辺では、約7700名がPuyallupの収監センターに集められたあと、アイダホ州のMinidokaなどの強制収容所に送られ、戦争終結までの3年間を過ごすことになりました。強制収容所は鉄条網を張り巡らされ、監視塔には機関銃が収容所内部に向けて据え付けられました。強制収容所は砂漠などの冬は厳寒、夏は酷暑の悪条件の土地に設置されて外部世界から隔離されました。木造バラックの長屋に数世帯が同居させられ、粗末なトイレも水道もすべて共有で,プライバシーなどありません。

米国人であり米国への忠誠心・愛国心をもつ日系人にとって、出自を理由とする隔離は建国の理念を裏切る不当で屈辱的な体験でした。そのため、米国人としての忠誠心を示し、米国人であることを証明するため,自ら米軍に志願した日系人から編成された第442連隊が欧州戦線で多大の犠牲者を出しつつも英雄的な戦功を上げるという歴史の展開もありました。

戦後に社会に復帰した日系人の多くは、恥辱的だった強制収容所の体験を語りたがらず、強制収容所の生活について本格的に記憶を留める動きは1970年代になるまで現れなかったということです。カーター大統領時代に日系人強制収容についての本格的な調査が開始され、レーガン大統領に報告書が提出されました。報告書は、「大統領令9066号は軍事的必要性によって正当化できるものではなく、その原因は人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治的指導者の失政にあった。」と結論付けました。そして、レーガン大統領は1988年に「市民の自由法」に署名し、米国連邦政府による公式の謝罪と、存命の元収容者それぞれに2万ドルの補償を行うことを承認しました。

このあたりの経緯については、雑誌「ライトハウス」の今年8月号によくまとめられています。また、当時の生活を経験した日系人へのインタビューを記録にとどめて保存、伝承するDENSHOというプロジェクトがScott Okiさん、Tom Ikedaさんらによって開始され、膨大な口述資料が常に整理・更新されて利用可能となっています(http://densho.org)。
 
75th Anniversary – Remembrance of Puyallup Assembly Center

9月2日、Puyallupの収監センターが設立されて75周年の記念式典が、当時のCamp Harmonyの跡地で行われ、1000人以上の人が集まりました。Tom Ikedaさんが当時のエピソードを語りました。司会のローリ・マツカワさんが強制収容所の生存者一人一人の名前を呼ぶと、彼らは竹の棒を振って応えました。当時、「日本憎し」の感情に任せて差別を増幅させた大衆に迎合せず、社会から批判を受けつつも,戦後まで日系人の財産を保全した米国人もいました。本国からの命令を無視して多数のユダヤ人に渡航ビザを発給し,彼らの命を救った杉原千畝氏を想起させますね。現在Pierce郡の郡長を務めるBruce Dammeierさんの祖父母もその一人だったということです。式典では、そのような米国人の子孫を通じて感謝を示し,彼らの立派な行為を通じてこそ歴史の教訓を伝えて行こうとする日系人の決意を感じました。

私は、この式典から、日系人がシアトルで尊敬されている理由を知ることができたと感じています。彼らは、歴史の悲劇と非情を直視し、決して忘れないと誓っています。一方、彼らは過去に引きずられて現在を見る目を曇らせることを拒絶し,歴史の事実を未来への教訓としてこそ利用しようとしています。移民としてシアトルに移り住んで以来の努力や誠意に加え、不公正な扱いを受けた過去をも克服しようという前向きな態度が印象的です。日系人の高貴な精神が尊敬を集めたからこそ、激しい戦争があったにもかかわらず日本が米国から認められ、かくも親しく受け入れられたのだと思います。そして、それが信頼と友情に基づく今日の日米関係が生まれる基盤となったのだと思います。わたしは、式典の間、このようなことを思いつつ、自分がこのような日系人と同じ血を分かつ身であることを心から誇りに感じたのでした。